ビタミンが発見されはじめた頃のお話です。


ビタミンが発見されはじめた頃のお話です。

 ビタミンAはアメリカのマッカラムが1914年に「バター中に存在する成長促進物質の分離」として発表されたのが始めですが、日本の三浦政太郎(有名なオペラ歌手の三浦環(たまき)の夫君で、内科医)博士がロンドンで研究しタラの肝油中にバターの何十倍も含まれていることを突き止めているが、帰国後はビタミンAの研究は発展させず、緑茶中にビタミンCが大量に含まれていることを証明したことで知られます。

 ビタミンAの研究を継承したのは東京帝国大学教授もしていた、高橋克也博士です。彼は研究開始1ヶ月で肝油中のビタミンAを解明し分離に成功しています。大正11年7月から8月にかけてです。その当時は、死亡原因のトップは結核でしたが、コッホにより結核の原因は結核菌であることが分かっていましたが、抗生物質がある時代ではなく治療方法は栄養補給が必要とだけしか示されず、結核患者には肝油が与えられていたようです。しかもすごくまずくてなかなか飲めるものではなかったようです。

 高橋博士によってビタミンAが分離されたため、理化学研究所はその製造販売で多大な利益を獲得するにまでなったようです。商品名「理研ビタミンA」、後に製薬会社からのクレームで警察から注意され(名前が学名そのままだから?)、名前を「理研ビタミン」としたそうです。

 高橋博士は「理研ビタミン」の研究で大正13年に師である鈴木梅太郎博士とともに、「補助栄養素の研究」で帝国学士院賞を受賞してますが、33才の若さで腸チフスでその生涯を閉じています。


 もし、白米だけを食事にしていたらどうでしょう。一月ほどで皆、脚気になってしまいます。動物実験では、白米だけでネズミや鳩を飼うと、1ヶ月以内に痙攣をおこして死んでしまうそうです。脚気は今でこそ皆無に等しいですが、明治から大正にかけて死亡原因の上位を占めていました。年間で約2万人ほどの犠牲者をだしていたそうです。

 この当時政府が悩んでいたのは、兵士、特に軍艦乗組員の罹病で、長期航海では約半数もが倒れ操艦不能にまでなるときがあり、その原因は兵食ではないか?と考えたのが海軍軍事総監・高木兼寛です。かれはイギリス海軍には脚気患者が出ないことから一部軍艦にパンと肉食を与えてみたら脚気患者が激減したのをみて、パンは不評であったので小麦ではないが大麦の麦飯を与えて、見事海軍から脚気患者を一層できたということで、国際的にも今でも食料史上の人物として高木の名前が記されているそうです。

 (英国海軍は、別名レイミーとも言われますが、それは、英国海軍では、船乗り達にレモンを多く食べてさせていたからです。このレモンに含まれるビタミンCなどによってその当時、長期の船乗りでは深刻事態になっていた壊血病が一層できたのです。このレモンのおかげで英国海軍は世界一の海軍になったのです。長期の航海では新鮮な野菜や果物はなかなか摂取できないため、ビタミンCが極端に不足し壊血病を引き起こしていたのです。たったひとつの栄養素が世界の歴史にも影響したのです。)

 面白いのは海軍と陸軍の対応の違いで、陸軍ははじめは、麦飯を採用しなかったようです。この理由は、森林太郎(森鴎外)一等陸軍軍医がベルリンでカロリー学説を学んでいたため、麦より米の方がカロリーが高いからというのがその理由のようです。しかし、日露戦争の最後の奉天大会戦でやっと麦飯に転換したのですが、それまでに約半数の兵士を脚気にしてしまっていました。これは高木のイギリス流の考えて方と、森のドイツ流の考えたとの違い違いであったようですが、依然脚気の原因については様々な学説が飛び出していたようです。

 この脚気の原因には、当時は米食の東洋に発生する風土病と言われたり、白米中に毒物質があるためとか、はたまた脚気菌という細菌原因説まで言われていました。


 これらの脚気論争に決着を付けた人は、鈴木梅太郎博士という人で、彼は理化学研究所というところで研究員をしていました。日露戦争をはさんで約4年半の間、ドイツ・ベルリンで、エミール・フィッシャーという方の元に留学していました。彼は、白米で飼ったネズミや鳩に「ぬか」を与えると症状が収まるのをみて「ぬか」中には、ある有効成分があるのではないかということで、その有効成分を濃縮精製を試み、見事成功した人です。その物質は今でいうビタミンB1ですが、そのときは、稲の植物学名「オリザ・サティヴァ」からとった「オリザニン」と名ずけたそうです。

 1910年(明治43年)12月7日に「治療薬報」に掲載されまた、東京化学会で発表されましたが、そのときの内容の抜粋は、「白米病治療効果を持つ米ぬか成分は、....(途中略)....微量でしかも著しい治療効果をしめす。これらの化学反応は各種ミネラル、諸種の炭水化物、蛋白質には見られない。もちろん脂質にも見られない。要するに従来の栄養素ではない。こらはおそらく一部の学者によって空想に描かれていた新栄養成分であろ。新栄養成分は事実このとおりに存在する。」、というものでした。

 この重大発見は、翌年の7月ドイツ学会誌に掲載されました。そしてその4ヶ月後の11月イギリスのフンクという人が、鈴木梅太郎博士とほぼ同じ方法で、同じ物質を結晶化しこれを「ビタミン」と名付けて発表しました。ビタミンの第一発見者は当然鈴木梅太郎博士であるはずが、「生命のアミン」という意味の「ビタミン」のほうが、受け入れやすかったのか、フンクの方が「ビタミンの発見者」となっているようです。

 1929年のノーベル医学・生理学賞は、フンクでもなく、鈴木でもなくエイクマンとホプキンスが受賞しました。エイクマンは「抗神経炎ビタミンの発見」ホプキンスは「成長促進ビタミンの発見」でした。エイクマンは鈴木より先に「米ぬか中には白米の毒を中和する中和物質がある」と主張していた人です。ホプキンスは1906年に動物には3大栄養素以外に微量な不可欠物質があると予言していた人ですが、実験の裏付けはなかったのです。1912年にようやく動物実験報告がなされたようです。

 日本の医学界の対応は、もっとひどく、医者でもない農芸化学者が神聖なる医学に口出ししたことに対して、権威的な医学者(東京帝大医学部教授、青山、三浦ら)は「そんな物質は尿中にもある、尿を飲めば脚気が治るのかと冷笑した。また、別の教授は「いわしの頭も信心から」というように、いっこうに相手にされず、せっかく作って三共から発売されたオリザニンは、臨床医からことごとく拒否されたそうです。

 (尿療法は戦争中の野戦病院で実際に使われているし、現在でも実際に行われています。妊婦の尿がエイズにも効くとも言われています。)

 大正2年、巣鴨養育園では20人の小児にオリザニンを試して良好な成績を収めていても、大正3年の日本医学会総会では、「白米飼育による動物の脚気様症状と人の脚気とは別種の病気である」と反撃されたほどでした。

 最終的には大正7年京都帝大・島園順次郎教授、慶大・大森憲太郎教授らの臨床試験の結果で、脚気の原因はビタミンB1の欠乏、と断定されるまで待たなければならなかったのですが、こうしてようやく鈴木博士の功績が認められた訳です。


 日露戦争で旅順が陥落したのは、ロシア軍が壊血病で悩まされていたためであり、もしロシア軍がビタミンCのことが分かっていたなら、世界の情勢は変わっていたであろう、と言われていました。



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